フリーランスママdays

フリーライター&中学生ママの日々の悩みと小さな幸せ

ケンカするにも元気がいる

今日は体調万全ではなかったので、子どもがワガママ言っても、明らかにケンカ吹っ掛けてきてんなというときも、言い返す元気がなかった。

「ああ、そうだよねー。ごめんね」

と力なく返していたら、ケンカはそれで終わる。

カチンと来て、言い返して、言い返されて、言い返してという応酬は、とてもエネルギーを必要とするものなんだ。

それでエネルギーがすっからかんになって、かつ、後味の悪さが残る。

だったら今日のように、元気なくふわっと受け止めるのもアリ、と思ったのだ。

小さな「やっちゃったー」を通して成長していく

私立中に通う長女。このところ新しいスポーツを始めたくなって、体験レッスンにいくつか参加している。

先日、あるスポーツで小学6年生くらいの子と一緒になり、話のきっかけとして、

「どこの小学校?」

と聞いたという。その子は

「私立」

とだけ答えて、話を打ち切ってしまったという。そっけない態度に傷つくほどではなかったが、いい気持ちはしなかったと言っていた。

そして今日、別のスポーツの体験レッスンに参加した。

そのスポーツは区立中学の体育館を借りて練習している。

その中学の用務員さんと話をしたとき、

「どこの中学に通ってるの?」

と聞かれたという。すると娘は

「私立なんです」

とひと言だけ答えて、学校名までは言わなかったそうだ。

私はその場にいなかったのだが、私のところに来るや、娘が言った。

「せっかく話のきっかけを作ってくれたのに、この間の小学生と同じようなことをしてしまった」

自分のしたことを悔やんでいた。

自分が苦い経験をしたからこそ、相手の身になって考えることができたのだろう。

こんなふうに自分の言動を省みる姿に、大きな成長を感じた。

こうした小さな瞬間が宝物のようにかけがえがなく、何度もとり出して眺めたい気持ちさせてくれる。

日本の受験システムに収まらないタイプ

高校受験の結果をブログで公表している彼。

それをニュースが取り上げ、否が応でも目に入ってしまう。

もう何度、不合格が続いているのだろう。

中学受験時のテレビ番組の密着も見ていて応援していたので、とても心が痛む。

なぜ結果を公表しようとしているのかはされおいて、私が思うに、彼のような自分の意見や意志を持っているタイプは、もしかしたら日本の受験制度に合わないのではないかと感じてしまうのだ。

どんなに深い考えを持ち、どんなにプレゼンが上手でも、結局ペーパーテストの点数で決まってしまう。

どれだけ真面目にコツコツと暗記したか。どれだけたくさん問題を解いたか。

そういう勤勉さをはかるのが日本の受験システムであり、きっと彼はその枠に収まらないのだろうな、と推測する。

彼のような人は、小論文やグループ討論や面接など、自由な発想や活発さを評価してくれる場にアプローチしなければならないのではないか。

私があれこれ言うまでもなく、ご両親、学校の先生、受験の専門家たちのアドバイスがあるのだろうが、彼自身が納得しないと前に進まないのだろうな。

枠に収まらない彼のことだから、この経験もきっと教訓に変えて力強く生きていくことと思う。

これから先、彼にとってよい学びの場に出会えることを祈っている。

どこまで自分をさらけ出すか問題

胸襟を開く――これは人間関係の基本だと思う。

自分はこういう人物ですよ、こういうこと考えてますよ、とさらけ出すことで、互いに興味を持ったり、わかり合えたりする。

だから、できるだけ嘘のないよう、言葉を選びつつ、ぶっちゃける、をモットーにやっているが、これはリアルワールドでの話。

オンラインでどこまでさらけ出すかは悩ましいところだ。

私は、私だけでできているのではない。

私は、私を含む家族、友達、仕事仲間と共にある。

だから、私をさらけ出すことは、同時に、私の仲間たちをさらけ出すことにもなりかねない。

つまり、プライバシーの問題である。

私のことをさらけ出すのは自由だが、私以外の人のことを勝手にさらすわけにはいかない。

このオンラインの世界で、見ず知らずの人に向かって話すのはどうしたってリスクがある。

かといって秘密主義になってしまえば、SNS時代、コミュニケーションがとれなくなってしまう。

それに文章を書くということは(特に出版物では)、さらけ出す覚悟がなければ価値が出ないとも思う。

この線引きが非常にむずかしい。

人のプライバシーを侵害せず、自分のことは徹底的にさらけ出すには――。

このせめぎ合いをしながら、今日も明日も書いていこう。

怒りをうまく表現するということ

北京オリンピックで金メダルをとった平野歩夢選手。

勝利のインタビューで口にした「怒りをうまく表現できた」という言葉に感銘を受けた。

なんてクレバーな選手なのだろう、と。

2本目のジャッジに納得がいかず、3本目に思いをぶつけたという意味でも、それについて「怒りを表現」という端的な言葉でまとめたことにも。

私たちは怒りを醜いカタチで露わにしてしまいがちだ。

高ぶる感情を抑えきれず、言葉を選ばないままに、相手を責めてしまう。

その結果は、大概いいものにはならない。

怒りを覚えることは日々あるけれど、そのたびに「さあ、どう表現する」と対峙したら、なんだか前向きにつきあえそうじゃない?

「怒りをうまく表現する」とは、何事もなかったように装うことでもなければ、心とは裏腹に笑っていることでもない。

ちゃんと怒っていることを相手に伝え、それでいて連鎖を生まない、場合によっては相手が態度を改める、そんな表現ではないか。

そんなこと、私にできるのかな。

怒りを子どもにぶつけて反省、を繰り返す私には簡単じゃないと思うけれど、やってみよう。

たいていのことは取り越し苦労

2月のある日のこと。

子どもがディズニーランドに遊びに行った。

オンライン授業が続いて、割合こもりがちだったので、久々に友達と楽しんでほしいと思っていた。

ただひとつ、懸念材料があった。それは夫だ。

夫は基本的に休日は家族で過ごしたい派だ。だが単身赴任から戻ってくるにあたって、私はよく言い聞かせた。

もはや子どもは小学生ではない。もう中学生なのだからいろいろ予定もある、と。

それもあって夫はあまりうるさいことを言わなくなっていたが、今回はヒヤヒヤしていた。

・前日の雪がまだ道に残っていること

・お金のかかる遊びであること

・コロナでマンボウが出ていること

などなど。そこらへんを突いてくるのでは、と思えて仕方なかった。

単身赴任の後遺症ともいおうか、夫はやはり向こうで寂しかったのだろう、子が中学生になっても休日に自分より友達との遊びを優先させてしまうことに抵抗があるフシが見られたからだ。

その気持ちはわからなくもないけど、今回は子どもを応援したかった。夫に邪魔はさせない。どんな理由をつけられても立ち向かう気でいたし、子どもの行動の責任はとるつもりでいた。

とまあ、見事な戦闘態勢だったのである。

で、無事子どもが出かけた今朝、夫にディズニーの件を伝えた。

すると、「あっ、そうなんだ」と、それだけ。

しばらく経つと「誰と行ったの?」「夕ごはんは一緒に食べるの?」などと楽しそうに聞いてくる。

まったくもって私の取り越し苦労だったのだ。

夫のこと、どうも信じきれないの、どうしたらいいかな。

でも夫も昔とは変わったし、変わろうとしている。その部分は信じていいと思った。

影響を受けている自分を楽しむ

自己啓発書が好きだ。その理由は、影響を与えてくれるから。

私は何かに影響を与えられ、自分が変わったとか、成長したと実感したいタイプ。

その何かは、よいものであっても、よくないものであってもいい。

たとえば、部屋がたいそう散らかっていて断捨離しなきゃ…と思っている時。

テレビやネットでキレイに片づいた素敵な部屋を見たら、断捨離のやる気に俄然火がつく。

逆に、とんでもなく散らかっていて汚い部屋を見たら、同じくやる気に火がつく。

お手本を見せられても反面教師を見せられても、刺激を与えてくれれば満足なのだ。

ティーンの頃からそうだった。サバサバしたいい感じの人に会うと、その日から一週間くらい「サバサバした自分」になってみた。

面倒見のいい人に会うと「面倒見のいい自分」になり、ピリリと辛口の人に会うと「辛口の自分」になってみたりした。

他人からはわからない変化だったかもしれないが、その時々、いいなと思う部分をとり入れて、ちょっぴり違う自分を演じた。

自分探し、自分づくりの時期だったのかもしれないね。

でも今も変わらないかな。影響を受けて、ちょっと違う自分になる。それが私の一部になる。

これからも変身し続けていこう。