子どもに本を読む人になってほしい理由
中学生の子どもには、本を読む人になってほしい。
作家の林真理子さんはこんなことを言っていた。「読書の習慣がある人は一生退屈することがない」と。
それそれそうなのよと全面賛同なのだが、今はスマホ時代だから、エンタメは選びたい放題、本じゃなくてもいいことになる。
じゃあなぜあえて本かといえば、2つ理由がある。
1つは、文章を読む耐性がつくことだ。読解力がつくとも言えるかな。
この耐性があると、いろいろな状況でサバイブできる。トリセツや契約書や論文を投げ出さず目を通せることは、イコール、だまされなくなることでもある。
そして2つめは、これは持論なんだけど、本を乱読している人ほど文章がうまいと感じているのだ。
うまいといっても、模範的でわかりやすい文章とは違う。センスが光る文章というのかな。
家族の話で恐縮だが、私の父がそうだったのだ。父は理系でしゃべりが得意じゃない。口がなめらかに回らず、説明に小難しい熟語を入れてきたり、頓珍漢なことを言ったり。父が書いた文章など見たことなかったし、年賀状にはひと言も添えずに出す人だ。
そんな父がある時、大学の同窓会誌に寄稿を頼まれた。読んでみて驚いた。「本当にお父さんが書いたの?」と母と言い合ったものである。美しい文章ではないけれど、癖があってどことなく文学的なのだ。読んでいてリズムが心地よい。
そういえば父は乱読派だったのだ。父の本棚には司馬遼太郎、松本清張、西村京太郎、西村寿行などが並んでいた。難しい文学やノンフィクションはなかった気がする(ちなみに今はスマホゲーム派)。
こうした作家の文体が大量に身体に刻まれているのだろう。頭で考えてもこういう文章は書けないだろうな、と思ったのだ。
もう一人例をあげると、多読派の友人がいる。彼は大学時代の同級生&バイト仲間で、ミステリーの趣味がぴったりだった。同じ本を最高のミステリーと崇めていたり、たまたま同じ時期に同じ本を手にとっていたり。
彼も理系で長い文章は見たことないが、ちょっとしたメールのやりとりをしたとき、「なんだか文章いいな」と思ったのだ。ほんの短文なのにリズムがある。文の端っこに説明のつかない味わいが滲むのだ。
上の二人とは逆の事例もある。
文章を書く仕事をしている人でも、本を読んでこなかった、本を読んでませんという人は、一生懸命に頭で文章を組み立てている感じがある。模範的でわかりやすい文章は書けたとしても、言葉と戯れているような味わいにはなかなかたどりつかない。まあ人のことを言える立場じゃないのだが。
また、話のうまさと文章のうまさは別物だ。それぞれの磨き方がある。
というわけで、子どもには書き言葉と楽しくつきあっていける人にほしいと願っているのだ。
だんだん長い文章に触れなくなっている今だからこそ。
TikTokの15秒しか集中力がもたなくなっている今だからこそ。