千里の道も一歩から
週末のこと。
家族の予定がバラバラで、食事の時間すらズレていたので、朝から晩まで家事しているようなものだった。
でも原稿の〆切は迫ってる。隙間時間をみつけてカタカタ進めるしかない。
夕食を終え、食卓に残された大量のお皿を見て思わずこう言った。
「今日は半分家事で終わっちゃった」
半分と控えめに言ったけど、ほんとは8割がたが正しい。
すると夫がこう言ったのだ。
「それってイヤなの?」
びっくりしたわよ。どうやら嫌味でもなんでもなく、心から聞いてるっぽいのだ。
「えっ、イヤだよー」と答えたけれど、こんな素朴な疑問を聞いたの、子ども科学電話相談以来よ。
家事の大変さを知りながら、私に押しつけようとしていたわけじゃなく、本当にわかっていなかったのだ。
自分のお母さんがやっていたように私が難なくやっているようだから自分の出番はない、と。そんな思考回路っぽいのだ。
「だからさ、食べ終わった食器は自分のぶんだけでも台所に運んで。私が10回往復するところ5回で済むから」
と言ったら、そうかと思ったようで、せっせと運んでいたけど。
先が思いやられすぎるなと思った。
たしかに私は、家事の内容と大変さをちゃんと説明したことがなかった。1年半の単身赴任期間があり、その前は(昨日のブログに書いたように)敵認定だった夫。なおかつ狂気の中学受験母だった私。
我慢して我慢して爆発!は何度もしたけれど、夫にしてみれば「すぐ怒って泣くな」くらいにしか印象に残らず、その原因には思いも及ばないようだ。
つくづく!
これからの時代、男子こそ家庭科の授業を、だ。
学校だけじゃない。こういうものは、育ってきた環境が大きくものを言う。私も、何度ギボンヌさんが頭にちらついたか知れない。
というわけで、一歩めから始めなければならない。
道のりは長い。
家の中に敵をつくらない
2年前の私は家の中に敵をつくっていた。その名は夫だ。
私に家事を押しつける敵。
私に子育てを押しつける敵。
リビングに私物を置いて圧迫してくる敵。
レストランランチしているママズを贅沢よばわりする敵。
女の敵。主婦の敵。
と思っていた。でも、家の中に敵がいるのってすごく消耗する。
こう言われたらこう言い返そうと、常に身構えていないといけない。
次は何を言ってくる?と何も言ってこなくてもイライラするのだ。
こっちが戦闘態勢だと、相手も戦闘態勢になるのは鏡の法則だ。
だから、やめた。
このままでは身が持たない。外に敵がいるなら、家で充電もできるけど、家の中に敵がいたら、外に行くしかない(カフェで充電していた)。
子どもにもいい影響を与えない。夫婦ゲンカは家族の心を乱すし、私の夫に対するグチは、思春期女子に父親ギライを植えつけかねない。
で、やめたらどうなったか。
とてもラクになった。夫のずぼらさやワガママは変わらないけど、少し話ができるようになってきた。子どもも夫と楽しそうにやっている。そう、夫は根っからのひょうきん者なのだ。夫も闘いに疲れていたのかもしれない。
今もふとした時、ファイティングポーズをとってしまうのだけど、ああいけないと思い直す。やっぱり家の中は味方ばかりがいい。
「情報を得る」と「成長する」を結びつけない
私は成長意欲が強い。
成長したくてもりもりと読むこと聞くことをしている。
ビジネス書、啓発書、エッセイ、新聞、ネットのニュース記事、ツイッター、ブログ、ボイシーと、ありとあらゆる情報をインプットしている。
インプットが大好きで、インプットによって成長すると信じている。
いいコンテンツに触れると、ちょっと成長したような気持ちになる。私までそのレベルでものを考えている気持ちになる。
でも、ふと気づいてしまう。それは、その発信者の考えでありアイデアであって、私が考えたわけではない、と。
その発信者が冴えていて頭いい!と感じれば感じるほど、自分との落差にガクッとなる。
インプットは自分の中にポトポト情報を入れ続ける行為であって、それ以上のものではない。自分が少しでも変わった、成長したと感じたければ、アウトプットするしかないのだ。
私が読んだことのある啓発書について、ボイシーのパーソナリティの人が発信していた。
その人はアウトプットするために本を読み込んでいることがわかったし、書かれている内容を実践し、その感想も含めてアウトプットしていた。ああこの人はちゃんと自分のものにしている!と思った。これが成長なんだ、と。
インプットは楽しいからし続けてしまうけれど、あえて立ち止まる必要があるな。
成長したければアウトプットしよう。このブログにまず。
愚痴を言いたくない私はどうしたらいいか
愚痴を言う人にはなりたくない。理由はかっこ悪いから。
でも昨年までの私は愚痴を言う人間だった。
主に、というか99%夫に対しての愚痴だ。愚痴は愚痴を呼び、子どもが0歳児のときまで記憶は簡単にさかのぼってしまう。
こんな状態が健全なはずがないと別れることも考えた。具体的な行動もちょっと起こした。単身赴任中だったので、結論をやや先延ばしにもした。
ところが突如、夫が帰ってくることになった。
さてどうする。どっちの道を行く。
私はやり直す道を選んだ。まだ修復するために十分もがいていないと思ったからだ。手紙を書いて気持ちを伝え、赴任先に送った。
夫が帰ってきた。一番大きな問題の部分は劇的に改善された。子どもたちも悩んでいた部分だ。
でも小さな気になることはいろいろある。大きな問題が改善されたから、小さい部分は目をつむっている。
でもさすがに目をつむれないことで、私の手間となり負担となる事柄だったりすると、不満はどうしても募っていく。やわらかめに夫に伝えてもいる。
こういう不満を愚痴にして吐き出したくなる。でもどこに? 少なくとも家の中では吐き出したくない。それこそ子どもが一番嫌うことだから。かといって他人が聞かされても困るだろう。
じゃあ、愚痴は飲み込むべき? いや、すでに胸の中にあるものを飲み込むのは体によくない気がする。
じゃあ、そもそもの不満を感じないようにするべき? いや、これこそ感覚を鈍化させ、思考を止める行為で、DVを受けていても気づかない悲しい被害者のようになってしまう(ちなみに私はDV、モラハラの類は受けていない)。
じゃあ、出てきた不満をここで整理させてもらう。愚痴としてではなく、観察記録として。
相手の行動を観察し、私の気持ちを観察する。そこから解決法を見出だす。その過程を書かせてもらう。
不満があふれて溺れそうになったら、ここはそういう場と化すので、愚痴なんて聞きたくないという方は、タイトルにこの文字を見たら素通りしてくださいませ。
3億円の宝くじに当たりたくない
宝くじを買ったことは人生で一度か二度しかない。
両親に買う習慣がなかったし、もともとギャンブル好きでもないからだ。
今、1等3億円のバレンタインジャンボを売り出し中だ。
もしも遊びで数枚くじを買い、3億円が当たってしまったら、困ったことになる。
今日、コツコツとこの仕事を続けていられるのは、教育費のために稼がなきゃ!という気持ちが半分はあるからだ。
3億円当たったら、コツコツ原稿を書くなんてできなくなるだろう。
じゃあ不動産投資でもして、そっちで生きていけばいいと思うかもしれない。
不動産投資、やってみたいと思わなくはないが、今の仕事を手放してまでやりたいとは思わない。仕事は、お金を稼ぐ手段でもあるけれど、それ以上に人生をよくしてくれるものだからだ。
なにせ、出会う人たちがいい。一緒に仕事している人たちにある種のイライラを感じたことがないのだ。
ある種のイライラとは、頭が固いなとか、考え方が遅れてるなとか、人に押しつけようとしてるなとか、手を抜こうとしてるなといったイライラだ。
むしろ、勉強家で合理的で洗練されていて尊敬できる人たちばかり。
こういう出会いは、仕事というコツコツ積み上げていくものだからこそ得られる。
大人になってからの出会いは、まあ今はオンラインを通しての出会いもあるけれど、なかなか得難いものなのだ。
というわけで、3億円当たったら、私はよりよく生きていくことができなくなってしまう。
5000万くらいだったら家の修繕をして、小旅行をして、教育費に使ったら意外と消えてしまいそうなので、だいじょうぶな気はする。
5000万円、当たっておくれ。
また今日も宝くじ売り場は素通りしそうだけど。
何でも鵜呑みにせず自分で考えたほうがいい
とは私が昨日、次女からもらった言葉。
どんな経緯かというと、私がラジオで聞いた以下の話を次女にしたことから始まる。
◯◯恐怖症というのがある。高所恐怖症、閉所恐怖症、ヘビ恐怖症など。
ヘビに噛まれたことがなくても、人はヘビが怖いと学習したら(生まれつきではないらしい)ヘビ恐怖症になる。
ところが交通事故がこんなにたくさん発生していても、車恐怖症になる人はほとんどいない(車で怖い目にあって恐怖症になる人はいる)。
この理由として、ヘビに噛まれるといった先祖の経験が遺伝子に組み込まれているものは恐怖症になりやすく、車のように最近発明されたものでは恐怖症が起こりにくいというのだ。
「ね、おもしろくない?」
と次女に問うと、
「ちょっと待って」
とさえぎられた。
「車は運転している人が人を襲う気がないけれど、ヘビは人を襲う気がある。だからヘビを怖がるんじゃない?」
と次女は言う。
どうなのか。子どもと一緒にいろんな事例を考えてみた。もし誰かが包丁を街中で振り回していたら怖いけれど、料理人が包丁を勢いよく扱っていても怖くない。
その人やその動物が人を襲う気があるかないかで恐怖症は変わってくるのかもしれない。次女の言っていることが正しいのかもしれない。
確かに、恐怖症についての正解はまだ見つけていないけど、権威のある人が言ったからといって100%同意するのは危険だ。
科学は日進月歩。日々いろんな発見がある。いつ天動説が地動説になるかわからない。疑って調べてみることから学習は始まる。
「お母さんはあまり何でも鵜呑みにしないで、自分でちゃんと考えたほうがいいよ」
この言葉を、誰よりも言われたい人から言われたことがうれしい。
お小遣いも門限もない中学生の遊び方
私立中に通う子どもは何かと忙しい。
ショッピングだ、カフェだ、遊園地だ、としょっちゅう友達と約束しては出かけていく。
私立中って、ちょっとそこらで遊ぶってことができない。東京の西と東くらい家が離れていることもフツーで、待ち合わせだけで大移動だ。
で、お金がかかる。せっかく会ったなら夕食を食べたいとかイルミネーションを見たいとか言う。で、帰りが遅くなる。
わが家はお小遣いも門限も設けていない。
お金は使うときに渡す、が基本。子どもには私の収入も公開してるし、稼ぐことの大変さは言葉や態度で伝えている。そのうえで、お金で行動を制限したくないとも思っている。
門限については感覚に頼っている。塾なら9時でもOKだが、遊びで9時は遅い気がする。夏と冬でも違うし、行く場所にもよる。
パキッとルールを決めたほうがいいのか、正直よくわからない。
ただ私自身、ルールがあまり好きではないのだ。
何事も制限や禁止をされると、それを破りたいという欲求が生まれる。学校の校則なんて反発心しか呼ばない。
またルールを作ると、親子の諍いのもとにもなる。ただでさえ揉めがちなこの時期に、これ以上のきっかけを作りたくない。
ルールで縛ることは「あなたを信じていませんよ」の表明でもある。
お小遣い制にするなら、何に使うかは自由ってことにしなければ信頼関係は保てない。私は何に使うかは把握しておきたいのだ。
門限も同じで、たとえちょっと遅くなったとしても、どこにいるかを正直に言える関係でいたいのだ。
だから、子どもを信じるし、応援する。
お金と時間の使い方はそのつど話し合う。
このスタンスで行く。